日本語に主語はいらない(金谷武洋・著)

10年以上前に初めて米国出張に行った時、同行者がレストランで飲み物を何にするか聞かれて「アイ・アム・コーク」と答えた、という、あまりにベタな失敗を目の当たりにしたことがある。
当然のことながら、日本語では「ぼくはコーラです」と言っても全くおかしくない。もちろん、「アイ・アム・〜」と「ぼくは〜です」はイコールではないわけで、これを直訳するのは間違いに決まっているのだが、それでは形としては全く同じである次の二つの文はどう違うのだろう。

  • ぼくは学生です。
  • ぼくはコーラです。

前者においては「ぼくは」はこの文の主語であり、「アイ・アム・〜」に相当する。一方、後者の文は実は省略された形で、「ぼく(が欲しいの)はコーラです」、もしくは「ぼくはコーラ(が欲しい)です」が本来の意味であると考えられる。
…たまたま英語でも話さない限りこんなことは考えないが、解釈せよと言われれば、少なくとも私は大体上記のような答えになったのではないかと思う。
この本を読むまでは。
筆者は、日本語に主語という概念はいらない、と言う。そもそも明治維新以後、学校で国語を教えるために文法を整備する過程で、手本にした英文法から導入されたのが「主語」なのだそうだ。そして、次のように主張する。

「愛らしい」「赤ん坊だ」「泣いた」――日本語の基本文はこの3種類で必要十分である。

(表紙カバーより)
では学校文法で主語と習った言葉はいったい何者なのか。本書によれば、「〜が」については基本的に「〜を」「〜に」などと同様の補語であるとのこと(「〜は」については別の説明が必要だが、ここでは控える)。これだけ書いたのでは意味不明かもしれないが、本書では従来の解釈を十分に吟味した上で筆者の解釈を詳しく説明しており、私としては極めてすっきりと納得できた。上記の「ぼくはコーラです」についても、ウナギ文論争(「ぼくはウナギだ」をどう解釈するかの論争)として紹介され、決着している。
テーマはこれまで学校で習ったことを大きく否定するもので、非常にセンセーショナルにも見えるが、文章は平易でわかりやすい。日本語文法が英文法の考え方と切り離されたことによって、日本語に関する理解が深まると同時に、英語や英文法に関する見通しもよくなったように感じている。
なお、所々、日本語そのものに関する話題とは別のところで違和感を感じる箇所もあった。例えば「終章 モントリオールから訴える」の「1 偽装する日本語」では、茶髪批判から始まって、ロックバンドや歌手の名前のアルファベット表記、英語の混じる歌詞などが槍玉に挙げられているが、個人的には賛同しかねる。もちろん、日本語に関してこの本が明らかにしてくれた考え方の重要さに比べれば些細なことではある。

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)(金谷 武洋)

[Posted on 2008-09-24]

日本語に主語はいらない(金谷武洋・著)” に対して3件のコメントがあります。

  1. 泉野正人 より:

    本日10/2(木)大塚グレコにて青木菜穂子(pf)鈴木崇朗(Bn)がイタリア在住の歌手sayacaさんをお迎えしてのライヴがございます!いずの はいきますがよしむらさんも是非! バンドネオンのたかとき君←若干21歳! 彼をきくのは久々です!sayacaさんの歌はCDでは聴いたことはあるんですが生で聞くのは実は初めてです!実に楽しみですぅまた色々タンゴについて教えてください!

  2. 泉野正人 より:

    あ イタリアのことが頭の中にあったせいか? 訂正です!sayacaさんはイタリア在住ではありませんよね(笑)←もちろんブエノスアイレスです!! ところで亜樹ちゃんが黒田亜樹が12月に日本に居るみたいですぅー

  3. よしむら より:

    しまったー、今見ました。今頃盛り上がってるんだろうな。残念です。クロアキさんはいろいろご活躍のご様子。12月は何か企画があるんでしょうかね?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です