国宝〜曽根崎心中、悪魔、田中泯、音楽

先日、ようやく映画『国宝』を観てきた。それから既に一週間経っているが、未だ眼前に残像が蘇る。とてもきれいにまとめることはできそうにないが、将来の自分のためにも断片的な感想を書き残しておく。あ、もちろんネタバレありありなのでご了承のほど。

何より圧倒されたのが、喜久雄 (吉沢亮) による「曽根崎心中」。震えて化粧もおぼつかないほどに緊張していた喜久雄が、舞台に上がるとお初そのものに。途中からは歌舞伎だということも、その歌舞伎が映画の中で演じられているということも意識から消えて、ただお初の痛切な想いに胸が痛んだ。

この「曽根崎心中」が、喜久雄とその周りの人々の運命を大きく変える。俊介 (横浜流星) は歌舞伎の中に自分の居場所を見失い、喜久雄にずっと寄り添ってきたはずの春江 (高畑充希) は俊介の手を取り、共に出奔する。春江の心の変化は若干不可解に思えたが、もはや喜久雄は自分とは異なる世界に行ってしまった、と感じたのかもしれない。それだけのことをさせてしまうほどの演技だったことに何の疑念も挿し挟む余地のない「曽根崎心中」だった。

喜久雄が神社の前で一心に手を合わせたあと、自分の娘である綾乃に「悪魔と取引してたんや」と話すシーンがある。日本一の歌舞伎役者になるためには他に何もいらない。捨てる対象には綾乃も、その母親である京都の花街の芸妓・藤駒(見上愛)も入るだろう。冷酷なことを全く穏やかな顔で言う人だ。古今、現世の利益のために悪魔と取引をする、という話は数多くある。私の場合最初に名前が浮かんだのはブルース歌手・ギタリストのロバート・ジョンソン。そういえば作曲家、バイオリニストのパガニーニもそう言われていたんだっけ。最も象徴的な存在はファウストか。ただこの悪魔という存在、多分に西洋的・キリスト教的な概念なのではないか (日本にも仏教語を起源とする悪魔という語は昔から存在したようだが、日本古来の悪魔はそんな取引をするような存在ではなかったように思われる)。勝手な想像だが、喜久雄は伝統芸能の世界に身を置く存在であると同時に現代に生きる個人でもあること、身を置く伝統芸能の世界においても外から来た存在であること、といった要因が「悪魔」を呼び寄せたのではないか。

俊介が歌舞伎界に戻る前に辿ってきた苦労と同じ道を、転落した喜久雄が辿る。手を引くのは春江ではなく彰子 (森七菜)。登場する女性の中ではこの彰子が最も不憫な存在に思えた。一方で、同じような運命を辿りながら俊介を支えて這い上がってきた春江のような覚悟としたたかさは、彰子にはなかったのかもしれない。

俊介が演じた「曽根崎心中」。歌舞伎としての完成度以上に、俊介という人間のあり方を見せつけられた気がする。お初の足にあれ程までの意味が込められてしまうとは。

何より恐ろしかったのが万菊 (田中泯)。化け物。晩年の孤独なあり方にしてなお、そこにいるだけで場を支配してしまう圧倒的な存在感。

エンディングテーマも含め、音楽は物語の世界を美しく彩ってくれた。時に無音となるのも効果的。一方で、歌舞伎の演目に音楽を重ねる必要はあっただろうか。いや、あったのかもしれない。正解などというおこがましいものでなく、自分の好みとしても、どっちが良かったかはわからない。

鑑賞後のクールダウンの図。

国宝

監督:李相日

原作:吉田修一

脚本:奥寺佐渡子

鑑賞日時:2025年9月14日(日) 12:15〜

劇場:東京・吉祥寺オデヲン

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