98.11.13更新
ピアソラ
小沼純一
河出書房新社
1997年

 これまで、この本について「筆者のピアソラに対する気持ちが十分にこもった力の入った一冊です」という表現で紹介をしてきました。確かに今でもそういった面を完全に否定するつもりはありません。著者なりの立場でピアソラを研究した力作ではあります。しかし一方で、この本が一般的にピアソラを知るために適しているか、万人にお薦めできるピアソラ入門書であるか、というと、大変残念ながら「否」と言わざるを得ません。ここでは、その理由について述べたいと思います。

 まず一つめに、著者のピアソラの音楽に対する接し方が一面的に過ぎるため、読者が広くピアソラの音楽に触れるのを妨げる恐れがある、ということが挙げられます。例えば著者は、80年代の五重奏による演奏、録音を高く評価する一方で、40〜60年代の録音に対しては半ば耳を閉ざしています。少し詳しく見てみましょう。まずは書き出しの「アプローチ」の章にて、ピアソラと出会うに際する心構え的な記述として以下があります。

 ただ、なんでもいいからランダムにピアソラの名がついているものを聴いてみればいい----とは考えないことだ。録音の状態もあるし、時代の刻印がつよすぎるものもある。まず、八〇年代の五重奏団の演奏、これからはいるべきだろう。そして筆者もあくまでこの時代の音楽を中心に語ることになる。くどいようだがおぼえておいてほしい、けっして録音のわるい、昔のアルバムを最初に手にするべきではない。まずは、八〇年代になってから録音されているものを聴くべきだ。

 私自身、ピアソラの CD が何でもすべて素晴らしいとは思っていません。その限りにおいて、最初の一文は賛成できます。また、確かにピアソラを初めて聴く人にとって、80年代の五重奏団の演奏は比較的入りやすいとも思います。しかし、録音だの時代の刻印だのということを引き合いにして、極めて断定的に80年代のものから聴くべきだ、と記述することは、読者に対して過去の偉大な録音に対する不要な先入観を植え付けてしまう危険性をはらんでいるのではないでしょうか。

 そしてもう1ヶ所、巻末のCDリストにて、70〜80年代のアルバムを一通り紹介(一部68、69年のアルバムを含むボックスっセットにも言及)した後に続けて以下のような記述があります。

 更にそれ以前ということになると、個人的にはほとんど聴く気がしない。その頃のほうがより新しいものをもっているのだという意見はあるのだが、その「新しさ」なるものがいまひとつ古典的なタンゴを知らないがゆえにわかりにくいこと、録音がわるいことなどから、聴く快感=刺激以前にひっかかることが多すぎるというのが本音だ。そのなかでごく稀に聴く気になるのは、ナディア・ブーランジェにタンゴをやりなさいと言われ、まさにブエノスアイレスに帰国する直前にパリ・オペラ座のオーケストラ、マルシアル・ソラールのピアノと録音したアルバム『Paris1955』、それにブエノスアイレス八重奏団のものくらいか。

 そもそも、引用範囲冒頭の「更にそれ以前」が一体いつ以前を指すのか、その前のパラグラフを注意深く読んでも今ひとつ確定できません。ただ、直前に言及されている中で一番古いのが、ボックスセット「タンガメンテ」に抜粋が収められている「ブエノスアイレスのマリア」(68年)ですので、普通に読むと60年代末よりも前、すなわち60年代半ば及びそれ以前を指しているとみなすのが妥当かと思われます。そして、もしそうであるとすると、この部分は全くもって賛同できません。
 ピアソラが五重奏団という、自身の音楽を最も有効に表現しうる形態を確立したのは60年のことですし、好不調の波はあったにせよ、60年代は作曲、演奏の両面で精力的な活動が行われていました。その様な時期に世に問われた「ニューヨークのアストルピアソラ」をはじめとする傑作アルバムが、その存在すら CDリストでも本文でも言及されず、まして録音が悪い、古典タンゴを知らないものにはピンと来ない、等の理由で「聴く気がしない」と言われてしまうことは、不幸以外の何物でもありません。
 大体、録音、録音と妙にこだわっていますが、今復刻されているアルバムの音質はそんなにひどいものでしょうか。百歩譲って80年代の録音と比べて多少クリアさに欠けるとしても、音楽の凄さを伝えるには十分なものと私は感じるのです。

 さて、私がこの本をピアソラ入門書としてはお薦めできない理由がもう一つあります。それは、人名等固有名詞の誤記、事実関係の誤りが多い、ということです。およそ手間さえ惜しまなければ誤りようのないような、日本でも既に評価の定着した人物の名前の誤記、ほんの十数年前に東京で行われ、実際に行った人が身の回りにも多数居るであろうコンサートの出演者の誤認、など、残念ながら怠慢であるとの誹りを免れ得ないものです。

 実は、一年ほど前にこれらの誤りをリストアップしたことがあります。今チェックすると新たなものも見つかるかもしれませんが、興味のある方はご参照ください。→『ピアソラ』で疑問の残る記述一覧

 間違いは誰にでもあることですが、その数と質を考慮すると、やはりピアソラ「入門書」としての任はこの本には重いような気がします。

 以上、私がこの本に対して気になっていることを述べました。実際のところ、タンゴを土台とせずにピアソラと接した場合の一つの見解として読めば、少なからず面白い点もあります。おそらくクラシックからピアソラを知った人には、それなりに共感できる面もあるかもしれません。著者自身、あとがきで、この本を著すに当たっての気持ちをこのように述べています。

... やる以上は勝手にやりたい。タンゴ・ファンやピアソラ・ファンとは無縁のところで、ただピアソラに圧倒され嫉妬するひとりとして書くこと。だから徒に読み手に媚びたかたちにはしたくない。

 その意気や良し、ではあります。入門書という側面をこの本に求めず、必ずしも平易とは言い難い日本語と格闘しつつ、一つ一つを自分の頭、自分の耳で確認しながら読み進める覚悟があれば、この本を手に取るのも悪くないかもしれません。


 なお、この件については特に皆様からのご意見、ご感想をお待ちしております。もちろん反論も大歓迎です。よろしくお願いします。


よしむらのページ | アストル・ピアソラ
吉村俊司(東京都)
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